大野原のあゆみ-1

大野原が都城県であった明治五年のこと、大野は養蚕の土地として聞かれたという記録があります。鹿児島市の人で、岩元伊右衛門、大山平左衛門、中島嘉右衛門の三人が共同して養蚕業をおこし、その年の四月、川辺郡川辺村の住民と団体移住の契約をしたのです。川辺村からやってきたのは約六O戸、その中心地は高峠のあたりで、ここに三O戸あまり、そのほか、赤迫十八戸、三つ石六戸などであったと伝えられています。今でも、高峠駐車場と三角屋根休息所の間にある小さな谷のあたりに、幾本かの桑の木が残っています。ちょうど、ライオンズクラブの桜の木が植えてある、あの附近です。


大野原のあゆみ-2

明治十年、鹿児島は西南戦争のために騒然としていました。このため、大野の養蚕業も大困難となり、自分たちの土地に相当な税がかけられるのではないか、とおそれた人々は、大野をすてて逃げ出してしまったのだそうです。その行先は、垂水、高限、百引、東串良方面であったと、大野小学校沿革史は記述しています。結局、大野の養蚕業は、わずか数年で廃滅してしまったことになります。このころの人々も、茶を作っていたのではないか、と思われるのですが、その明確な証拠はみつかりませんでした。

明治5年4月、川辺村から約60戸が移住入植して養蚕業を営んでいました。写真は、そのころ植えられた桑の木です。


大野原のあゆみ-3

その後、大正のはじめまで、ここ大野原は熊本営林局の管轄下におかれたまま、ほとんど住む人もいなかったのです。明治三十六年(当時の垂水は垂水村でしたから)垂水村会では、大野への移住を計画して調査を実施したのですが、経費の面からとうとう実現しなかったということです。わずかに、明治のおわりごろから大正のはじめにかけて、黒木太郎吉とその息子の二人が住んでいたようです。住居が、今の小学校上あたりで、狩猟・炭焼き・原始的な焼畑式農業で細々くらしをたてていたと伝えられています。

明治10年、鹿児島に帰っていた西郷隆盛がたち、西南戦争となりました。このため大野の養蚕業は廃滅したと伝えられています。

大正三年一月十二日、午前十時五分、桜島は大音響とともに爆発し、八000メートルに達する噴煙と大量のやけただれた溶岩をふき出したのです。赤水と桜島口のあたりには特に大量の溶岩が流出し、島島が埋没し、桜島が半島化するほどでした。このため桜島では一九O六戸、一万三二三九人にのぼる擢災者を出したと記録されています。垂水一帯は、北風に乗った大量の噴煙が絶えまなく続き、所によっては五0センチにも達する降灰や泥炭流のため、耕地をあきらめなければならない人が続出したということです。海潟や水之上方面から大野への入植者が多かったのは、このような理由からなのです。

大正三年、桜島大爆発を直接撮影した非常に貴重な写真です。これは、南日本新聞社の厚意によって提供していただいたものです。

大野中学校で開いた「古老に聞く会」で、開拓一世の室田清市さんは、次のような話を聞かせてくださいました。『わしがまだ十代のわかいころ、わたしは小高い丘の上で農作業をしていました。すぐ目前に見える桜島が大音響とともに、まず東の峰が爆発し、半時問、ぐらいあとから西の峰が爆発をおこしました。噴火はずっと続き、かみなりのような地鳴りが絶えまなく続いて、噴煙のためにあたりは夕方のようにうすぐらくなってしまいました。午後になると降灰はさらにひどくなり、垂水の市街地の人びとは津波をおそれて、次々と山手の方に避難して行きました。夕方六時ごろになって大地震の追いうちがあり、倒壊家屋さえ出たほどでした。ほとんどの避難民は夕食も寝具もなく、なんとかありあわせのもので、というありさまでありました。』やっとまにあわせる

童話「分校のがき大将」に収録された「桜島の大噴火に埋もれた村J(橋村健一作)のカット(潮平正道画)をもとに模写、加筆、彩色しました。